ギャンブル依存症啓発の難しさ。

先日、仕事の研究発表会の時にこんなことがあった

僕の後ろの席で男性管理職の2人が前後の席で何やら話をしていた

「今日、東京は雨ですよ」

「いやでも雨でも軸はありますよ」とかなんとか

最初は仕事の話かと思って聞いていたら

「僕はワイドでいきますよ」

「僕は馬連から流しますよ」みたいな話で

ああ 競馬の話かと気づいた

僕はギャンブルの話に興味はないが

別にその話に「ギャンブル依存症って病気がありまして」なんてわざわざ言う訳はない。

そもそもギャンブル依存症の話はその人たちには届かない

もし仮に話したところで彼らは「僕らはギャンブル依存症ではないんで、自分のお金で楽しみでやってるんで」と言われるし

他人が依存症かどうかなんて僕にはわからないし、楽しんでやっているのも事実だろう

ギャンブル依存症の話が響くのは

「自分はもしかしてギャンブル依存症ではないだろうか?どうしたらギャンブルは辞められるのだろう?」と思っている人たちだけである。

ここに依存症の難しさがある。

本人がギャンブル依存症と思ってなければギャンブル依存症ではない

いくら指標やスケールがあっても本人が自覚しなければ意味がない

そして実際に家族に連れられて自助グループに参加してくる多くの当事者が多額の借金を抱えているのにも関わらず

「家族に言われてもしかして依存症かもしれないと思って」とか

「自分ではそう思ってないんですけど、家族が行けって言うんで」と平然と言う

それでも僕らはその人が

「もしかして僕はギャンブル依存症ではないだろうか?」と思った時にどうすればいいかという情報発信をする

それが大事だからだ。

この前あるフェローシップの時に家族の方に

「Rさんは”依存症のエリート”だから普通の依存症者とは違う」という趣旨のことを言われた時

何かが喉にひっかかった。

もちろん悪気があって言ったわけではない

でもその時は言語化できず、帰ってからよく考えた。

「あなたは勉強ができるからいいですよね」と言われる時とすごく似ている

たまにそういうことを言われたり、そういう人を見たりする

僕はどこに違和感を感じているかずっと考えていた

それは一種の諦めに聞こえるからだ

確かに能力のある人とない人はいるだろう

ビジネスや勉強でそういうのはわかる

でも「依存症からの回復」についてそれを言うのは違う

なぜなら「能力のある人」が回復できて{能力のない人」が回復できないのはダメだからである。

「エリート」しか回復できないのではそれは救いにはならない

だから僕は言った

「誰でも回復できますよ!」と

確かにどんなに頑張っても回復できない人も世の中にはいるだろう

でも支援する側がそれを言ってはだめである

さらに僕は知っている

あきらめなければどんな人も回復するという事実を

ある時姿を消した仲間がオンラインミーティングで

「お久しぶりです。あれからいろいろあって今は何とか1年辞めてます」

ということを僕は何度も聞いている

だから僕は仲間が回復できることを絶対に信じている

今日も賭けない一日を。