寂しくなくなっても依存症が治るわけではない。と僕は思う。

2つほど書きたいと思う

1つ目。「目の前に依存物質があったとしたらやってしまう」という表現について

うむ。

これはよく聞く表現だし、僕もたぶん使う

「今使えるお金が10万あって自由に使っていいよ」と言われたらギャンブルしてしまうだろうね

みたいな感じとか

「きっとギャンブル場に行ってしまえばギャンブルをしてしまうだろう」とか

いや 合ってるんだけどね

何となく違和感あるんだよね

「今目の前に薬物があったらやってしまう」

ふむ。そうか?

うむ。

まあやめてる年数や個人によるなあ 当たり前だけど

僕が自由に使える金10万あってもギャンブルはしないかなあ

デリヘルには行くかもな(笑)

ギャンブルはもはや面倒くさいからなあ(笑)。

ギャンブル依存症的思考なら

「この10万を20万にしてから使おう」になるんだろうけど

今の僕なら

「さっさと10万使おうっと」になる(笑)

それがいいか悪いかは置いておいて(笑)。

まあ この話は何となく違う表現ないかなあと思っただけ でした

良く僕が使うのは自分の回復体験を伝える時に

「今でも使えるお金があれば行ってしまうかもしれない」って感じ

まあ合ってるな(笑)。

まあ「ギャンブルしてしまう可能性がある」が正しいかなあ。

2つ目 セミナーで支援者の方の質問で

「依存症は寂しさの病気と言われてますが、寂しくなくなれば依存はなくなると考えてよろしいですか?」

みたいな質問だったと思うけど 僕なりに考えてみた。

質問内容にいくつか違うと思うところがある

①依存症の要因は「寂しさ」だけではないし、むしろ複合的な要因が多いと思う

②「寂しさ」がなくなるという状態はあり得るのか?という疑問

③依存がなくなれば問題解決というのは違うと思う

さて、①から

もちろん依存症の要因は「寂しさ」にある場合もあるけど生活習慣も絡んだりするし、一概に「寂しさ」だけとは言えない。

もちろん「寂しさ」は大きな要因である。

②に関して

「寂しさ」って感情だし、難しい。

普通なら1日のうちでも「寂しい」時もあれば「寂しくない」時もある。

何をもって「寂しい」とするのか?

別に依存症の人でなくても「寂しい」と感じるのではないか と僕は思う

なんとなく「依存症の人」「依存症じゃない人」みたいな印象を受けるけど

別に誰でも依存症になるし、誰でも「寂しい」じゃん(笑)

だから「寂しさ」がなくなるという状態はあり得ないかなあ

例えば たくさんの友人がいても、誰かと愛し合っていても、寂しさは感じるものだし

むしろ人生のスパイスだと思うけどねえ

寂しくないのは釈迦くらいかなあ(笑)

③について

依存がなくなればすべて解決なのか?

まあ そんなわけはない

「その人にいろいろと問題があるから依存症になるのか」

「依存症になったからその人に問題が出たのか」

その辺ですかねえ

「寂しさ」は僕は好きだけどねえ

秋だし、「寂しい」から恋をするのだし、人で出会うと思う。

昔Twitterで依存症界隈で

「結局寂しいんだよね」というつぶやきが流行ったことがある

気持ちはよくわかる

結局「寂しさ」なのもよくわかる

だけど

誰かと24時間居たから「寂しくない」わけではない。

きっと「自分で自分を愛すること」だと思う

今日も賭けない一日を。