最近自分を理解できるようになった
僕にとって、そもそもいろんなことが無理ゲーだったのかもしれない
青年期から僕は0か100思考だった
集中力もそうだったから、受験の時は勉強に全振りするので良い成績だったが
高校に入学すると部活もするし、まったく勉強しなくなった
よく高校の担任に「お前は入学した時30位以内だったんだぞ」と言われたが
当たり前である
受験の時は100使っていたから
他にやることができると勉強に100は使えない
というか0に近かった
部活をして帰ると疲れて寝るだけで勉強する気力もなかった
でも他の子たちは部活も勉強もするスーパーマンばかりだったし
そもそも勉強についていけなかった
まあ 現代国語は好きだから教科書を買ったらすぐ読み終わっていた
みんなが嫌いな「この作者の意図はなんでしょう?」というテストも
「作者が思っていることなんてわかるわけないだろ、それは本当に作者の考えてることなのか?」と白紙で回答したりして嫌な学生だった笑
人間関係においても
人間関係においてもこの白黒思考は強く
「自分の味方か敵か」「恋愛対象か否か」みたいな感じだったので
その中間の友達みたいな人間関係は構築できなかった
高校まではなんとなく学校に行っていれば他人はいたので
勝手に人間関係は構築できていたが
大学や社会にでるとそうもいかない
自分で作っていかないといけなかった
僕はたぶんそういう能力に欠けていたと思う
さらに 会社でも家庭でも、友人でも、うまくやらなければならない
白黒思考の僕にはそもそも無理だったと思う
会社で何とか適応しようとして、さらに友人関係や恋愛関係も構築しなければいけないのは僕には無理だった
自分じゃない普通の人。
でも「普通の人」はやっていた
働いて、家庭を持ち、子育てをし、相手の親ともうまくやる、金銭管理もでき
みたいなことが僕には無理だった
でも そういう能力が欠けていることは外からはわからないのだ
自分ではどこか「普通でない」ことをコンプレックスに思っていて
「普通になりたくて」 人並みの収入を得るために無理をし、家庭を持ち、子育てをした。
もちろん楽しい部分もあるけど
すべてをうまくやるのは無理だった
それでも「普通の人」はどこかグレーでも何とか生活するものだけど
僕は無理だった
ストレスを抱え過ぎてしまう
でも 社会は「普通の人」を望んでいて「頑張る有能な人」を望んでいる
まあ マイノリティには難しいよなあ
さらに認知が歪んでいても誰かとそれについて話すことがないので
何が歪んでいるのかわからない。
「無理しなくてありのままでいいよ」 の残酷さ。
逆によく生き延びてこれたと思う
それくらい社会からはみ出してしまうことは生きづらいのだ
「無理しなければいい」「ありのままでいいじゃん」
などという普通の励ましのなんと残酷なことか
無理をしないということがわからない
「無理をしないとまた社会からはじくくせに」 といつも思っていた
ありのままでいいよ
ありのままがわからないから困っているのに
「無理するな」「ありのままでいい」というのは
きちんと社会に適応できる能力のある人ならきちんと受け止められるが
欠落者たちには刃物でしかない
50歳になってから1人で生活する時間が多くなり
もしかして自分は誰かと生活するのが苦手なのかもなあ
と自分の能力の幅を理解し始めた
自分を理解してあげられるのは自分しかいない。
そうして自分を理解して生活してみて
どんなに楽なことか
ある程度生活できるだけの収入を働いて得て、あとは自分の好きなことをする
本を読んだり文章を書いたり映画をみたり
誰とも比べず、誰に文句を言われず
これが精神的自由なんだなあ
と感じる最近でしたとさ。
