
そんな感じで鬱から抜けきれないまま僕は小樽へ向かった
最初はワンルームのアパートを借り、生活を始めたのだが
慣れない暮らしや知っている人がいないストレスは相当なものだった
加えて夜間主コースというのは授業が夜にあり、昼間はみんなバイトしたりしていた
1年のGWくらいになると暇すぎて僕もバイトを始めた
それが地元で有名な喫茶店だった。
大学のバイト募集で応募したのだが綺麗な店長さんがいる喫茶店だった
僕はただ綺麗な店長さんというだけでバイトに応募し、バイトを始めた(笑)
しかし、その店長さんのキツイことキツイこと。
加えて僕はバイト経験もなくレジも打てず、毎日怒られていた
慣れた頃に朝番を任されることになり、朝7時に店を一人で開けるようになった
だけど朝何度か寝過ごしたことがあり、失敗できないと思うと眠れなくなり
ついには朝まで起きているということをしていた
そんな感じだから大学の授業の時間も寝過ごすようになり
また昼夜逆転となっていき、ついには鬱になっていった
20歳の成人式の年、僕はバイトを休むんで実家に戻りたいとは言えずそのままバイトをしていた
本当は帰りたかったのだけども
そんな無理がたたっていき、さらに眠れず
「これはおかしい」と自分でも気づき、僕は精神科のクリニックを調べて受診し、その場でわんわんと泣いた。
そしてその医師に「不安だったら連絡しなさい、入院させてあげるから」と言われ
僕は帰宅後、不安過ぎて、クリニックに電話し、そのまま札幌の病院へ入院した。
3か月ほど入院してから、退院後も服薬を続けることとなった
これが僕の精神科との付き合いの始まりである。
僕も自分のことがおかしいとは気づいていた
ボーダーラインなのか不安神経症なのかそのあたりはよくわからなかったが
それからは希死念慮との共存だった
たぶんそれは鬱症状もあったが薬の副作用の部分も大きかったと今なら思う
だけど当時は医療知識もないし、薬も昔の薬しかなかった
今でこそ副作用の少ない抗うつ剤があるが昔の薬は副作用がきつかった。
世間は元気でポジティブな人間を求める
それから外れると何とかそういう「普通の人間にならなければ」と僕は思いこんでいた
でも社会だって世間だって
「やる気があってポジティブな人間を求めている」
そうだろう
それから外れてしまうと必要のない人間と感じてしまう
それに合わせるように僕は処方薬を増やしていった
「うまく笑えないから」
「人とうまく話せないから」
などなど
当時は法律が緩くて札幌では薬を出せば出すほど医者は儲かった
だから僕は薬漬けになっていった
抗鬱剤っていうのは血中濃度で効果を発揮する
裏をかえせば血中濃度が低下すれば効かないということだ
そのうち僕はある程度の抗うつ剤がないと意欲が出ない身体になっていった
ああ そう言えば思い出した
実家の祖母がよく小樽に来てくれた
当時 青森から札幌まで夜行列車が出ていて9時間くらいかかった
当時祖母はきっと60代だったと思うが
何度も小樽まで来てくれた
ていたらくの息子のために
まあ 今少しは報いているのかなあ
<今日はここまで>
インスタに全文載るんだなあ
恥ずかしいわ(笑)
今日も賭けない一日をありがとうございました!