サバイバーとして。

まあ 何をサバイバーと定義するかは別として僕は自分をサバイバーだと思っている。

彼女もサバイバーだ。

少し昔話をしよう。

1997年、僕が23歳の頃、世間は絶望に満ち溢れていた。

超氷河期時代と言われ、証券会社が潰れた時代だった。

「完全自殺マニュアル」が流行り(ああ今はコンプラでだめなんだろうな)

「依存症」という言葉もポップカルチャー的ではあった。

たぶん 世の中の絶望に僕は看過されていた部分もあったかもしれない。

20歳で精神科に入院してから、僕は独りで暮らすのが不安になると入院した

だって病院の方が人と繋がっていれたから

よく躁鬱の子とか摂食の子とかと遊んで、僕はODをしてリスカしていた。

その後ネットが普及してからよくリスカの写真をあげて友達を探していた。

まあ そんな暗い時代だった。

僕は当時大学の写真部でセルフポートレイトと詩を展覧会に出したが特に何も言われなかった(笑)。

ともかく生きてるんだか死んでいるのかわからなかった。

だからいつも「ギリギリでいたかった」

もっとギリギリを。もっとギリギリを。生きてる実感を得るために。

処方薬で飛び、社交性もなかったので、いつも浮いていて、やがてひきこもった。

社会に適応できないことがひどく孤独だった。

消えたいといつも思っていて、どこから抜けていいものかさっぱりわからなかった。

なんだろうな 人と繋がっている感覚がなかった。

「離人症」じゃないかと本気で思っていた。

そして奇跡的に誰かと繋がれたら、その関係に依存していく。

そんな生き方だった。

たぶん それは45歳まで続いた。

処方薬もやめれるようになり、依存症からも回復できるようになると

「なんて生きやすい世界なんだ」と感動すらしている。

自分を責めなくてもいい世界

自分を許してもいい世界

自分の意見を言っても怒られない世界

生きててもいい世界。

そんな感じだ。

この先もどうなるかはわからない。

でも今はこの自由を享受していたい。

去年、彼女は少しだけ嬉しそうに僕に言った。

「わたしもサバイバーなんだよ。昔出入りしていたサイトで生きてるのわたしだけなんだ」

そんな彼女と今日も世界を生きていく。

今日も賭けない一日をありがとうございました!