それを証明したのが、1970年代終わりに心理学者ブルース・アレキサンダーが行った、有名な「ラットパーク実験」だった。それは、一匹ずつスキナーボックスに閉じ込められたネズミと、多数の仲間と一緒に広々として遊具がたくさんある楽園に置かれたネズミとで、どちらの方がよりたくさんのモルヒネを混ぜた水を消費するのか、という実験だった。 その結果、大量のモルヒネ水を懸命に摂取し消費するのは、檻のなかに閉じ込められた孤独なネズミの方だった。広々とした快適な空間で仲間たちとじゃれ合い、楽しむネズミたち、不思議とモルヒネ水を消費せず、見向きもしなかったのだ。
■人間が覚醒剤に依存してしまう原因も孤立無援にある
ラットパーク実験は、依存症の原因は、薬物の側ではなく、孤独で窮屈な檻の側にある可能性を示唆している。 人間だって同じだ。 もしも「シャブ漬けになった生娘」がいたとすれば、それは覚醒剤という強力な依存性物質だけのせいではない。彼女たちの多くが、嵐の吹き荒れる家庭に育ち、虐待やいじめといった暴力、あるいは無関心に曝されながら、生き延びるために家を脱出していた。当然ながら、金もなければスキルや知識もなく、何より安心して相談できる相手がいない。
~本物の「シャブ漬け生娘」を治療してきた精神科医が、吉野家常務の発言と反応におぼえた強い違和感 yahooニュース記事より 精神科医 松本俊彦
この記事は吉野家の役員の「生娘をシャブ漬けにする」という発言の本当の問題点はどこなのか。精神科医の松本俊彦氏は「覚醒剤依存症の人の多くは、自己肯定感が低く、孤独に苦しんでいる。『シャブ漬け生娘』という表現は、そうした人たちをより苦しめることになる」
ということを書いた記事の抜粋である。
つまり依存症になる要因は必ずしも依存物質、依存行為だけにあるのではなく、その環境や「生きづらさ」にあるのだという。
確かにその通りだと思う。
僕は臨床家でもないし、実証できる論理もわからないので自分のことを話そうと思う。
僕はたぶんずっと昔から「自分には何もない」という感覚を持っていた。
それは「自己肯定感」や「自己効力」などというかっこいいものではなく
ただただ「自分に何もない」という絶望感だった。
それは20代にはさらに強くなり、社会になじめなかったこともあり、自殺企図ばかりしていた。
もはやどうしたらいいのかわからなかった。
この沼を這い上がることは無理だろうなと感じていた
30代にははっきりと「胸の穴」を実感するようになったし
ただそれを他人に説明できる術を知らなかった。
よく分からない「虚無」を抱えていた。
ザラザラとした孤独。ザラザラとした虚無。
それから逃れるためには抗鬱剤を使い、抗不安薬を使い、傷つかないように生き、人を傷つけないように生き延びるしかなかった。
ギャンブルも逃避の手段の1つだった。
ギャンブルをしている間はいろんなことを考えずに済んだ。
きっと「寂しい」とかそういうことだったと思う。
僕にとってはギャンブルは自傷行為だった。
生き延びるための自傷行為だった。
だからもっと破滅しなければならなかった。
それによってしか「生きる感覚」を持てなかった。
こういう感覚が他人が理解できるとは思えなかった。
今でも思っていないし、理解できると近づいてきた人間は排除している。
恋愛もそうだった。
性行為は一時の寂しさや虚無を忘れさせてくれた。
「ああ 僕は壊れているだな」
よく思ったものだ。
それでも何とかまともになりたくて、教会などに相談しに行った。
牧師に「この胸の穴はどうやったら塞ぐことができますか?」とよく聞いたものだ。
牧師は「その穴には神様が入ればいいだよ」と優しく話してくれた。
メンタルがきつい時にはよく教会の礼拝に出た。
もしも自分のキツさが減るのであれば神でも何でも信じてみたいと思った。
そういう僕が人間関係を構築するには「弱さ」を言語とするしかなかった。
リスカしてる子や通院している子と不思議と引き合った。
自分を何とかしたいといろんなこともした。
内観、インナーチャイルド、カウンセリング。
まあ あまりその時の僕には効果がなかった。
素直ではなかったから。
あの頃の僕には依存するしかなかった。
ギャンブルに、破滅に、虚無に。
そうしなければ自分の中の心淵と向き合えなかった。
そうしないと直視しなければならないから。
何を?
「自分には何もない」という絶望と。
まあ そういうわけで僕は生き延びるために依存できるものには何でも依存してきた。
それからどうやってここまできたかって?
それはまた今度
今日も賭けない一日をよろしくお願いいたします!