母を訪ねて三千里。

僕は48年前の今日生まれた。

その5カ月後、母は死んだ。

過労だった。

障がい者施設で働いていた母は体調が悪くても仕事を休むことができず、そのまま亡くなった。

赤ん坊の僕は父に抱かれ、労働問題の提起として地方の小さな新聞に載った。

写真はその時の切り抜きである。

僕は母の記憶を相続した。

青年期には「なぜ俺を残して死んでしまった?」と恨んだりしたものだが、歳を取るって素晴らしい。

そんな気持ちも薄れていくのだ。

僕は母の死を中学の時に知らされた。

それまでは知らされてなかった。

それからは母の痕跡を辿り始めた。

自然なことだった。

母は長女で、うちのじいちゃんは厳格な人だったけど、母は心臓が弱かったそうだ。

母の中学、高校の通知表を僕は相続しているが、頭が良かった。

そして正義感も。

青森から一人、名古屋へ飛び出し、日本福祉大学へ。

その後は千葉の小さな障害者施設で働いていた。

母らしい。

もちろん、それらは僕は見聞きしたものだし、母の痕跡を知るようになってわかった。

僕は大学時代に母が勤めてした施設にもお邪魔したし、母の学生時代の友人らにも会った。

ともかく知りたかった。

母がどんな人だったのかを。

当然だ。子供なのだから。

20代で僕は生きるのに迷った。

そんな時はよく「母ならどうするだろうか?」と幻影を追ったりもした。

ともかく僕の中で母は偶像であり、神格化されていった。

そりゃあそうだ、どんな人だったかなんてもはや証明の仕様がないのだ。

でも、母の遺品の高校時代の作文などを読むと僕とそっくりだった。

人の心に生き続けるとは不思議なものだ。

もはや母の記憶を持っている人は少なくなった。

僕だって赤ん坊だったから実際の記憶はない。

だけど、彼女は僕の記憶のなかで生き続ける。永遠に。

それがいいか悪いか知らないが、僕を構成し続ける一部となった。

30代のころは「普通になりたかった」

普通に結婚して、普通に子供育てて、普通に暮らす。

「普通」に囚われていた。

囚われているのも理解していたが、そこから抜け出す手段を知らなかった。

今はもう「普通」には囚われていいない。

「今の自分がすべてである」

普通にも、母の幻影にも縛られていない。

やっと自分の人生を生きている。

そう思えるようになった。

生んでくれてありがとう。

いつしか僕の息子も僕のことを思う日が来たらいいな。

そうしたら僕は母さんのことも彼に話してみるよ。

では、またね。

今日も賭けない一日を。

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