じいちゃんが死ぬまで正月は親戚が集まる行事だった。
従兄弟を合わせれば僕を含め8人いた。
その中でお年玉をまわす。
金額も年齢に沿うように。
従兄弟の中で僕は一番上だったので毎年5万前後にはなった。
ただ、僕は一銭も使えなかった。
「貯金しなさい」とすべて預けていた。
高校2年の時、頭に来てキレてスキーのセット30万くらいを豪遊した。
「俺の金だろ」と。
小さい頃はちやほやされたから良かったが、20代は悲惨でもあった。
ほとんど働いてなかったから。
あの子はどこそこで働いている、誰それは結婚しただの、うんざりだった。
毎年が憂鬱だった。
だから、18で家を出た。
23で戻ったが、30でまた出た。
家族にイネイブリングしていた僕は自立するのが用意ではなかった。
本当に大変だった。
30歳で祖父母が死に、やっとイネイブリング先を失った。
だから自立するしかなかった。
生き延びるために。
工場の派遣に出た。
当時職歴を問われず、すぐ受かったし、住み込みだったから。
宇都宮、三重、京都、延岡、35まではそんな暮らしをした。
「過去にすがるな」なんて言う人もいるが
僕が辛い時に思い出したのは幼い時の楽しい思い出だった。
今は自分の子供のためにまだまだ死ねない。
まあ生きる理由なんてそんなもんだ。
18の頃、なんであんなに「生きる理由」にこだわっていたのだろうか。
まあ若かった。
もっとシンプルでいい。
食うため、養うため、住むため、着るため、性交するため。
それでいい。
今日も賭けない一日を。