言論の自由 序説。

相変わらず、特にタイトルに意味はない。僕が記事に書こうと思っていることはスマホに常にストックしてある。ただ数日後、見返してその時でも書きたいと思ったことを記事にしたりしている。

これは単なる個人のブログであり、個人の意見である。

と前置きしたのは、少なくとも不特定多数のアクセスできる状態にあり、自分の意見を述べるということを示しており、その上で【個人的意見】ということを前置きしている。

まあ それくらい か弱いのだ。 よろしくお願いいたします。

なぜ、こんな前置きかというと自分で自分に「コンプライアンス」を敷くようになってしまったからである。

当たり前だが、どんな場所でも「なんでも言っていいわけではない」。

それでもブログという場所は僕にとって「自由な世界」であった。

そんな場所でさえも自ら「こんなことを書いたらどう思われるだろう?」「これは誰かを傷つけないだろうか?」

そんなことを意識している自分がいた。

まあ 当然と言えば当然であるが、何とも窮屈になったものである。

もちろん意識しているのは自分ではあるが。

あるシンポジウムで「他人が過去の罪を断罪するようになったのはTwitter以降だ」と話されていた。

またある方は「僕らは近くなり過ぎた」と言った。

確かにそう思うこともある。

昔はTVに出ている人に意見や応援など直接言えるものではなかった。

事実、僕はたのきんトリオに意見を言ったことはない。そういう場所もなかった。

でも、今は違う。「できてしまう」

芸能人がSNSのアカウントを持っていれば、「応援のコメント」をすることもできるし、「意見を言うこと」もできる。

芸能人じゃなくても、SNSを開けば、誰かはそこにいて、いろんな意見をいい、それに何かを言うことができる「システム」になっている。

これはいいこともあればよくないこともあり、その影響力は誰かが自殺することに発展することもある状態となった。

じゃあ SNSをやめればいいじゃん?とはよく聞く言葉であるが、そこでしか居場所がない人はそうもいかない。

僕もそういう人なので、SNSに救われてきた方である。

ただ、付き合い方は変化している。自分を守るために。

そもそも僕らはリアルがうまくいかなくてネットに居場所を求めてきた。

20年前、yahooチャットから始まり、掲示板、mixiなど居場所を求めてきた。

だけど、もはやリアルを普通に楽しめている人達も普通にネットの世界に浸食してきた。

僕はもはやネットは「公共の場」になってしまったんだなあ と思う。

じゃあ 僕らは今度はどこへ行けばいい?

僕は時々、自分が創り出したコンプライアンスのせいで「言論の不自由さ」を感じる。

でも、いいのだ。

僕には読者が1人いるから。

毎回、その読者に向けて書いているから。

それだけでいい。むしろそれでいい。