僕らは寄り添うことしかできない。

僕は基本的に人同士は理解しあえないと思っている。

例えば僕は現在アルコール依存症ではない。だから、アルコール依存症者の辛さはわからない。だけど話を聞いて想像することはできる。

また、僕は現在薬物依存症者でもない。だから薬物依存症者の辛さはわからない。だけど話を聞いて想像することはできる。

逆に僕はギャンブル依存症者である。だけど普通の人にはわからないと思う。だけど理解してもらおうと努力する。なぜなら理解してもらいたいからだ。

お互いに理解できないかもしれない。でも理解してもらおうと努力しなければ何も始まらない。何も言わないから察してくれ。というのは傲慢な話であり、理解されるわけがない。

助けてほしいのに、助けてほしいと言わなければ、全くわからない。

最近、人によって感じ方は違うなあと思うことがある。

昔、しゃべり場という10代の子の意見交換のような番組があった。その中で片親の10代の女の子が「母親しかいなかったけど全然寂しくない」と発言した。きっとそれには嘘はなかったと思う。

そうしたら、両親が健在な女の子が「ほんとは寂しかったのよね。わかるわ。」と言った。その発言に片親の女の子は泣いてしまった。

「何もわかってないくせに!!」と。

僕はそれを見ていて、片親の女の子の気持ちがよくわかった。その子は寂しかったのではない。わかったふりをされ、寂しいとレッテルを貼られ、卑下されたことが悔しくて泣いたのだ。

僕も両親がいなかったからよく言われた。

「寂しかったでしょうね」

怒りすら覚える。

「僕はその中で生きていくしかなかったし、お前に何がわかる。わかったふりをするのはやめてくれ」そんなふうに思っていた。

ただ、僕も若くてじゃあどうして欲しかったのかも自分でわからなかったし、自分をわかってもらう努力もしなかった。

理解はできないかもしれない。

ただ、想像する努力や分かってもらう努力をしなければ、僕らは寄り添えない。それは何も依存症の人に限ったことではない。

他人同士が寄り添うためには想像力と努力が必要なのである。

今日も賭けない一日を。