ACからの解脱。

「わたしはわたしの人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。
わたしはあなたの期待にこたえるために生きているのではないし、あなたもわたしの期待にこたえるために生きているのではない。
私は私。あなたはあなた。
もし縁があって、私たちが互いに出会えるならそれは素晴らしいことだ。
しかし出会えないのであれれば、それも仕方のないことだ」

~ゲシュタルトの祈りより~

僕はゲシュタルトの祈りがとても好きだ。よく思い出している。これがなぜ心に響いたかというとたぶん「支配されて」育ったからだと思う。

僕は「機能不全家族」で育った。それの医学的定義は省くが、僕がAC(アダルトチルドレン)になるには十分だったと思う。僕がACになったのは育った環境ばかりではないと思うし、そこには僕の性格的な問題も含んでいると思う。

20代、30代はACからの回復にフォーカスしていたが、特に得られるものはなかった。インナーチャイルドとかカウンセリングとかいろいろなものを試したが、結局抗鬱剤の方が効いた。

その前に少し僕の生育歴について話さなければいけない。僕が生まれて半年で病弱な母は死んだ。よって僕は母を知らない。そのことが後に僕の中で母を神格化させ、青年期の心理面に影響を与えた。

父もよく知らないが、たぶん社会になじむには難しい人だったと思う。働いてはいたが、のちに借金で失踪する。僕は探し続けたが、結局アパートでひっそりと死んだあとのDNA鑑定のため警察に呼ばれて、骨と対面した。それが僕が40歳の時だった。

僕は母の祖父母に引き取られ、育てられた。祖父母は僕を不憫と思ったのか、本当の両親のことは僕に話さないでいた。それを知ってしまった高校性の僕は壊れていくのだが。。。。。

僕は小さい頃から自分の意見が言えない子だった。何か主張する時には泣いてしまっていたし、そもそも「自分の意見」というものがよくわからなかった。

中学にあがるまで祖父母と3人で暮らしていた。祖父は真面目で厳格な人、NHKしか見なかった。僕は友達の話を聞くなかで「ズームイン」があるのを知らなかった。祖母は祖父についていくだけの人だった。

食事の時に話をしたことがなかった。ある日友達が家に来て食事をした時にいろいろと話していて、「食事の時、話してもいいんだな」と思った記憶がある。

ともかく僕は「人様に迷惑をかけない」ようにと育てられた。僕はそれをまともに受け、そういう観点でしか生きられないようになっていった。大学に行き、仕事をし、子供を持ち、そういう人生のことだった。

だけど、僕にはそのレールが自分と合わなかった。でも、そのレールから外れてしまうと「迷惑をかけた」と思ってしまい、罪悪感に苛まれた。特に20代は精神病院にも3か月くらいいたし、18歳で一人暮らししてからは何もできなかったし、人間関係も築けなかった。

たぶんだけど、スポイルされていたし、「支配されていた」。それから逃れようとも、すでに自分で生きる能力に欠けてしまっていた。

こうした歪んだ中で、成長していったのだが、そういう感覚は46歳の今やっと少し解放されてきたという感覚がある。それは依存症の回復によって少しずつ僕は僕を取り戻していった。

僕は20代の頃、よく「この家に生まれなければ」「この親でなかったら」などと思っていたが、たぶん歪んでいたのは「世界」ではなく、「僕の考え方」の方だった。

今ならよくわかる。「機能不全家族」だって誰が悪いわけでもない、むしろ金銭的には恵まれていたし、祖父母だってそうするしかなかった。母の死も父の失踪も仕方なかった。誰も責めることはできない。

そもそも、「僕を支配してきた人たち」はもうこの世にはいない。僕が感じてきた「支配されてきた」感覚は「支配してきた人たち」がいなくなってもしばらく続いた。それは僕が「世界」に持っていた感覚だったからだ。

いろんなことを書いてきたが、私的なことだし、過ぎていったことばかりだ。ACによる囚われも「依存症かの回復」とともに少しずつほぐれていっている。

そして、やっと「自分の人生」を生きることができるのかもしれない。怖いけどね。「支配されてきた人」は実はそれに依存して生きてきた部分があるから。それがなくなると「自分を構築しなければならない」から。

もともと「自分がない人」が「自分を構築」していくのは難しい。まずは「何が好きか」「何をしている時が心地よいか」など、子供の心に戻って感じる必要がある。自分の「好き嫌い」を取り戻すのだ。

そういうことをしていって、「死ぬ間際」に少しは「自分らしさ」を取り戻せるのではないだろうか。

非常に個人的な話ですみませんでした。

今日も賭けない一日を。