時は薬なり。

カコミエールというアプリがあって、1年前とか2年前とかのツイートや写真が見れる。それを見ていたら、1年前、2年前の感情を思い出した。2年前は体調悪くて、実家には行かなかった。去年はツイートによると実家から帰る車で寂しくて泣いたらしい。確かにそんなこともあったなあと思った。

離婚して3回目の正月だった。最初の年とかつらくて、寂しくてしょうがなかったなあ。しかも鬱とかになってたから、もうぐじゃぐじゃだった。自分の気持ちも上がらなかった。去年は少し持ち直したけど、やはりギャンブルは止まってなくて、心は寂しいままだった。

今年は何とかギャンブルをやらずに済んでいるし、少しの寂しさも平気になっている。そう思えば「時は薬なり」だよなあと思う。時間によって見方が変わったり、自分が強くなったりして、少しずつ耐性ができてきたりする。

それでも、子供に会いたいと言われ、お年玉をあげに行って自分の部屋に戻ってから、自分の離婚は正しかったのだろうか、と自問自答して、落ち込んで、少し寝た。

もともと2年前の離婚は僕の身勝手なものだった。事の発端は僕が家族のお金を使い込んだのが妻にばれたのが原因だった。そのお金はギャンブルや浪費に使った。借金は今でも払い続けている。その時、別居してから、僕はもう責められるのに嫌気がしてしまい、逆キレ気味に離婚を提案した。妻にはかわいそうなことをしたと思うし、子供には罪はなかったと今は思える。

ただ、当時の僕は逃れることしか考えれらなかったので、そういう選択しかなかったし、妻には最後までギャンブルはしていないと嘘をついた。僕らの関係も冷めていた。

離婚して独りの生活になってからしばらく落ち込んでばかりいた。寂しすぎた。子供のいない生活は本当に寂しかった。1回目の冬はメンタル的に体調を崩した。2回目の冬もあまり調子はよくなかった。今年は少しいいみたいだ。実家に行っていとこの子供と接しても、動揺することはなかった。

少しずつだけど、寂しさに対する耐性ができてきたのだと思う。人間ってしぶといなあと思う。そんなことすら気づかず過ごしていたけど、子供の感情に揺さぶられてしまった。子供の寂しいの前ではこれから自分がやりたいことなど意味があるのかさえかすんでしまうけど。

また、今日一日を生きるだけだなと思う。誰も正解をわからないのだから。僕は僕で精いっぱい今日を生きるだけである。