批判することは何も生まない。

僕はニュースが好きなのだが、今はテレビも新聞もないので、ニュースと言えばネットニュースしか読まない。それも暇があればyahooニュースを読んでいる、スマホでである。最近の人たちの情報源って結構スマホ経由やSNS経由だと思う。

今日もラーメン屋で、いつものようにスマホでyahooニュースを読んでいた。その中で気になる記事があったので紹介したい。それはこの記事⇒>>アルコールや薬物の依存症に苦しんだ経験をオープンにしている7人のビジネス・リーダー<<です。

まあ、なんてことない。海外では依存症から回復した人が活躍していますよ~という記事である。僕も何気なく、「へえ、いろんな人も依存症だったんだなあ」と思っただけだった。とここまでは何ともなかった。問題はコメント欄である。

個人の意見なので、引用するのは避けたいが、 「意思が弱いだけ、だらしないだけ、節操がないだけ。」「被害者面して、今は復帰して頑張ってますぅ頑張ってアピールいらないから・・・。」「 アルコールはまだしも、薬物依存は…被害者面して美談にするのは如何なものか・・・・。」「綺麗事はないだろう、薬やってた奴は、またやるだろう! 」

僕は絶句してしまった。それと同時にこれが世間のイメージなんだろうなと思った。もちろん、一部の意見ではある。だけど、こう思っている人たちもいるのも事実だ。本当に愕然とした。同時に僕もそう思われるだろうなあと思った。

「どうせ、またやるんだろう?」回復したところで「美談にするなよ」って言われるのかなと思った。と同時に「もっと頑張らないとなあ」とも思った。

コメントを批判することは簡単だし、批判することでは何も解決しないよって批判したら、自分も同じだなと思った。事実、僕は他のアディクションを違う目でみることがあった。それは「僕はアルコールではない」とか「薬物でもない」と思うことがあった。もちろん、今ではそういうことはなくなったが、今は同じ「依存症」として見ている。ごめんなさい。

そう、僕だって批判するコメントの人たちと同じだったのだ。僕は医療機関に勤めているが、時々アルコール依存症の患者の対応をすることがあった。以前は僕も批判的に見ていたが、今は「大変ですよねえ、僕もギャンブルがやめれないんですよ」的な見方に変わった。

それでも、まだ、僕はどこかで「僕は薬物やアルコール依存症者とは違う」と思っているのかもしれない。まあ、実際は同じである。ちょっと話がずれたが、記事内の「誰にでも起こりうる」という部分にコメントの人が「誰にでも起こりうるなんて、絶対にそんなことはない」と意見を述べているが、「絶対」なんてありうるのだろうか。

ある立場の人を批判するのは簡単である。だけど、それは自分も認められない可能性があるということだと思う。自分を認めてもらいたいなら、他人も認めることが必要である。

まあ、僕は依存症当事者だから、当事者の気持ちしかわからない。家族や依存症じゃない人の意見は違うのだろう。だが、その違いを批判や否定することで拒絶するのはどうかと思う。依存症者は回復してはいけないのだろうか?社会復帰してはいけないのだろうか?

同じようなプロセスをSNSで見たような気がした。薬物依存症の元NHKアナウンサーの人のツイートに批判的なリプがついていて、悲しくなったものだ。

そういう批判する人に、一度聞いてみたい。「依存症になったら、生きてちゃだめですか?」「依存症から回復することはいけないことですか?」「依存症になったら、社会復帰してはいけませんか?」「僕らは弱い人間ですか?」「あなたは依存症にならないと言い切れますか?」と。

実は僕もギャンブルをやめれないときに自分のことをそう思っていた「ギャンブルをやめれないなんてだめな人間なんだ」「生きてることを許してほしい」「ギャンブルをやめれないなんて生きている資格がない」本気でそう思っていた。

だけど、Twitterで依存症から回復していく仲間や、依存症は誰にでも起こりうることと声を大にして活動している田中紀子さんや、家族の会の活動にどれだけ救われたか。たぶんそれは僕の人間性の回復だったと思う。

「ああ、僕はこの世の中にいてもいいんだ。」本気でそう思った。記事のコメントのように世間では批判的な見方も多い。その中で依存症者は自分で自分を追い込んでいく。そういう時に「大丈夫、生きててもいいんだよ!僕も同じなんだよ」そう言われることはどんなに救われることか、想像できないと思う。でも、それが事実である。そういう世界で僕らは生きている。

今の時代、簡単に人を批判できてしまう。特にネットの世界は匿名で意見を言えるから、自分は傷つかなくても、人を傷付けることもできる。だけど、そうじゃない意見も聞く耳を持っていたいと思う。それが寛容な社会というものだ。

もう一度言うが、僕らは美談のために回復しようとしているわけでもなんでもない。ただ必死で身を寄せ合って生き延びようとしているだけだ。依存症になったのは僕らの責任だろうか?確かにそうかもしれない。でもそこから回復しようとすることはいけないことだろうか?批判に値することだろうか?

清原やのりピーやマーシーや沢尻エリカを「弱い人間だ」と批判することは何か解決するのだろうか?それよりも依存症の人もこうやって回復している人もいるんですよ。とロールモデルを示した方がよっぽど社会の利益になると思うし、多様性を認める寛容な社会だと思うし、そうであることを切に願う。

最後に僕には田中紀子さんのようなしゃべりの技術や人気もない。誰かのようにイラストを描けるわけでもない。だけど、文章だけは少し自信をもっている。少しでも僕の文章がいまだ悩みつづけている依存症の仲間の役に立てればと願って止まない。終わり。