普通からの逃走。

僕はずっと「普通」になりたかった。ずっと「まとも」になりたかった。気づいた時には謝るだけの人生を過ごしていた。「こんな僕でごめんなさい」「許してください」そんな気持ちが「もっとまともにならなきゃ」「もっと普通にならなきゃ」と強迫観念に近くなっていった。

それはつまり、今の自分を否定し続けることだった。今の自分じゃない自分。もっと違う自分。もっと普通の生活。もっとまともな給料。もっと普通の人間関係。普通の結婚。普通の子育て。もっと違う自分にならなければ、認められないとずっと思っていた。

それはつまり、ありのままの自分を殺し続けてきたということだ。なぜ、そういう考え方になったのか、たぶん機能不全家族環境のせいだと思う。僕は支配されて育った。祖父にはそんな意識はなかったかもしれないが、僕は怯えて暮らした。

いつも違う家ならいいなあと思っていた。それから僕の人間関係に対する判断は「支配する者」と「支配される者」の2つしかなかった。僕は支配されないように敵対心を持ち、心を許す者には「支配」しようとした。かなり歪んでいたと思う。

45になって、僕の周りの僕を支配する者はいなくなっていた。祖父母は死んだし、兄弟もいない。だけど、僕の人間関係の構築は「支配するか」「支配される」かであり、いつも自分には何か足りないと感じていなければならなかった。

たぶん、それが依存行為へと走らせていた。

最近、やっと少しだけその意識が薄らいできた。「足りない」と感じることが少なくなった。それはきっと依存症である欠陥品の僕でも受け入れてくれる仲間がいるからだと思う。やっと普通に息ができる。そんな気分だ。

それまでは否定されるのが怖くて、怖くて生きていた。スリップをしたら、この世の終わりだと思っていた。失敗をしたら、もう終わりだと思っていた。だけど、今はたとえ失敗しても、ただそこにいてくれる仲間がいる、話を聞いてくれる仲間がいる、そう思うだけで、自分は欠けててもいいんだなあと思える。ありがたいことだ。