自己責任論と運命と宿命と才能と努力とその辺の話。

最近経済が厳しいせいか自己責任論や社会責任論という記事をよく目にする。まあ大体が「貧困は自己責任なのか」みたいなテーマだが、いろいろ考えてみた僕にはよくわからなかった。少し考察してみたい。

「なりたいものになれないのは本人の努力が足りないせいであり、個人の貧困は個人の責任である」というのが自己責任論であり、そうではなくて「そうならざる得ない社会システムに問題がある」と言うのが社会責任論である。(社会責任論は僕がつけたので本当はどう呼ぶかは知らないが)

「なりたいものになれないのは本人の努力の問題」を考えてみよう。

女優になりたい女性がいるとしよう。女優になれないのは努力が足りないのだろうか。日の目を見る女優の下には日の目を見ない女優がごまんといると思うのだが、その人達も努力が足りないのだろうか。医者になりたい人を考えてみよう。それも努力が足りないのだろうか。貧困になってしまう人もいる。それも努力が足りないのだろうか。病気になる人がいる。その人も努力が足りないだろうか。

確かに努力が足りない場合もある。それくらいの勉強じゃ無理だと思うこともある。でも努力したから、誰もが女優、医者になれるわけではない。のも事実である。

「じゃあ 貧困は社会のせいか」まあ貧困に関していえば、セーフティーネットと言う部分に関して言えば社会のせいだとは思う。僕も派遣の仕事をしていたから、僕らが低賃金で3交代で働いていた時に正社員は管理職で福利厚生もあり、僕らの数倍の年収だった。僕はよく「これでは結婚はできないし、子どもも無理だな」と普通にあきらめていた。

「じゃあ 正社員になればいいのでは?」と言う話も出るが、そう簡単な話ではない。僕はたまたま今正社員の仕事をしているがそれだって鬱病でやめなければならないと考えていた時期もある。

いろんな本を読んでいると発達障害や病気で貧困ならざる得ない人たちもいる。読んでいるとどうしようもないなあと思うこともよくある。勉強したくてもお金もない。虐待されている。自尊心が持てない。仕方ないと思うしかない人たちもいる。

だけど、僕はだが、もともと生まれた時から運命は決まっていて、それに従って生きるしかないという「運命論者」ではない。もしも自分の努力や何かによって自分の人生が切り開けるのであればそうしたいと思っている方である。

それでもうまくいかない人たちやうまくいかない社会があったりする。それもわかる。

そう、どっちもわかるのだ。

僕自身、それほど選んできたわけではないが、今少なからず、安定した職場にいる。それはそれを望んだばかりではなく、拾ってくれた人や、いろんな要素があってここにいる。

自分の努力で何とかなることもあるし、何とかならないこともある。それでも生きていく。

そんな感じだろうか。

多様性、自己責任論、どれも正しく見えるし、難しい時代だなあと思う。はたから見てるだけでもあるが、いろんな意見を咀嚼できるようでありたいと思い続けている。