僕にとって自助グループとは居場所である。

ギャンブルをやめるために自助グループに通うのではない。もちろんそういう側面もある。あくまで僕の場合だが、それは居場所であり「生きててもいいんだよ」と肯定しあう場所だと思っている。

もちろん最初のきっかけは「ギャンブルをやめたい」という願望だと思う。だけどいつしか理解していく。「自分にはこういう場所が必要だったのだ」と。

社会的立場や、性別、名前で区別されず、「ただその人」ということだけでコミュニティに属することができる。手っ取り早い方法である。

僕もそれまでいろんなコミュニティを探してきた。ピアカンとかいろいろとね。うまく生きられなかったし、孤独であった。自助グループも慣れなかったし、離れたりもした。正直「何がいいんだろう。面倒くさいだけなのに」そう思っていた時もあるし、今も思うこともある。

だけど、今は居心地がいいし、楽しい。誰もがそういう気持ちになるわけではないと思うが、悩みを聞いてもらえるだけで相当救われる。

想像してみてほしい。

「ギャンブルがどうしてもやめられなくて、嘘をついたり、家族の物を売ったりするんです」という話を当事者以外の誰が聞くというのだろうか。

僕が思いつくのは教会の牧師くらいだろうか。

僕の自助グループに対する気持ちも変わってきた。今までは「ギャンブルをやめたい」という思いに何とかしなければいいけない。という気持ちが強かったが、今はオンラインでもリアルでも「居場所」になってくれたらいいなあと思っている。

「ギャンブルをやめようがやめられなくとも」自助グループが居場所になってくれたらいい。毎週同じ時間に集まって、言いたいこと言って、馬鹿話して、また1週間頑張る。それでいい。たとえギャンブルが止まらなくても。

それが本来の自助グループのような気が最近している。

悩みや生きづらさを共有する。この「共有」「共感」という力はすごいのだ。一瞬で「自分は独りではない」と感じさせてくれる。だからまた前に進める、何度でも。

そのためには多少の勇気は必要である。例えば、その場に面倒でも参加する。知り合いになるには1度参加したくらいでは難しいし、自分の話を話してみることも必要である。

でも大丈夫。最初は誰もが慣れないし、居心地悪かったのである。

そのうち、毎週楽しみに生活するようになる。

何も楽しみがないという人は自助グループに依存すればいい。そうやって悪くなっていった人を僕は1人も知らない。

今日も賭けない一日を。